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本を先に読む?映画を先に観る?

2009年7月27日
アヒルの顔 今、公開中で話題になっている映画『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を観に行ってきたわよ。
ウサギの顔 それは、良かったね。
面白かった?
アヒルの顔 わたしは今まで、先に原作の単行本を読んでから映画を観るようにしていたんだけど、今回に限っては原作を読まずに映画を先に観てみたの。
ウサギの顔 へえ、そうなんだ。
それで、ご感想は?
アヒルの顔 先に本を読んでいると、自分の中でイメージができていて、そのイメージ通りの映像が出てくると印象に残るのよね。
本の挿絵みたいな感覚で記憶に残る感じ。
でも、今回は原作のイメージがなかったせいか、昨日観たばかりなのに映画の内容がもう記憶から薄れてきているの。
私の記憶力が悪いせいもあるかもしれないけど。
これから原作を読むつもりだから、どちらを先に体験するのが良いか、また後で報告するわね。
老人の魔法使いとメガネの少年のイラスト画像

本を先に読むべきか、映画を先に観るべきか――『ハリー・ポッター』と『ロード・オブ・ザ・リング』にみるメディア受容順序の影響

はじめに

文学作品が映像化されることは、現代において極めて一般的な現象である。
映画と原作本のどちらを先に摂取すべきかという問いは、読者や観客の間でしばしば議論の的となる。
先に本を読むことで作者の意図や細部に対する深い理解が得られる一方で、先に映画を観ることで登場人物や世界観の視覚的イメージを確立しやすいという利点もある。
本論では、『ハリー・ポッター』と『ロード・オブ・ザ・リング』という二つの世界的ヒット作品を対照的に取り上げ、それぞれにおける先行メディアの受容が鑑賞体験に及ぼす影響を考察する。

映画先行体験の事例――『ロード・オブ・ザ・リング』

わたしは『ロード・オブ・ザ・リング』において映画を先に鑑賞した。
ピーター・ジャクソン監督によるこの三部作は、J.R.R.トールキンの重厚な原作を壮大な映像作品として再構築したものである。
映画の圧倒的な映像美と緻密な世界観は、初見の視聴者に強い印象を与え、原作への興味を喚起するに十分であった。

その後に原作を読んだ際、映画では省略されていた詳細――たとえば「トム・ボンバディル」のエピソードやホビットたちの内面の葛藤――が新鮮に映り、映画では得られなかった文学的豊かさを感じることができた。
これは、視覚的に構築された「中つ国」のイメージが先に存在していたことで、原作の読み解きがスムーズになったという側面がある。
一方で、既に映画で展開を知っていたため、物語の「先が気になる」感覚は相対的に薄れていた。

原作先行体験の事例――『ハリー・ポッター』

一方で、『ハリー・ポッター』シリーズについては、小説を先に読了していた。
J.K.ローリングの筆致によるホグワーツ魔法学校の描写は、読者の想像力を刺激し、登場人物の性格や成長に対する深い愛着を形成させた。

その後に映画を鑑賞した際、キャスティングやセットのデザインが自らの想像と異なっていた場面に若干の違和感を覚えることもあった。
とくに、原作で繊細に描かれていた内面描写――ハリーの葛藤やスネイプの存在意義など――が映画では描ききれていない場面において、「物足りなさ」が顕著となった。
一方、映画の演出や音楽、魔法の描写は原作を補完し、より立体的な理解を可能にした点は特筆に値する。

受容順序の違いによる心理的影響

両作品の経験を比較するに、先に映像を受容した場合、視覚的なイメージが先行するため、後から読まれる文章が「補足情報」として機能しやすい。
一方で、先に原作を読んだ場合、映像化作品は「自分の頭の中で作り上げた世界」との照合となり、そこに格差が生じやすい。
これは、いわゆる「原作至上主義」が生まれる要因ともなっている。

ただし、受容者の年齢や読解力、映像作品への親和性によっても影響は変化する。
児童文学から入る『ハリー・ポッター』と、古典文学の色合いを持つ『ロード・オブ・ザ・リング』というジャンルの違いも、受け手の印象形成において重要な要素である。

おわりに

「本を先に読むか、映画を先に観るか」という問いに、絶対的な正解は存在しない。
原作を先に読むことで得られる内面的な深さと、映画を先に観ることで得られる視覚的直感――いずれもが作品理解に資するものであり、互いに排他的ではない。
重要なのは、どちらを先に選ぶかではなく、両者をいかにバランスよく受容するかという姿勢である。

その意味で、本と映画は「順序」の問題ではなく、「対話」の関係にあると捉えるべきであろう。(亀吉)

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