幻の蝶 80年ぶりに確認

ブータンシボリアゲハは、そのいでたちからヒマラヤの貴婦人ともよばれているそうだ。


揚羽の名に導かれて
風がそよぎ、夏の空に影がひとつ、揺れる。
黒く、青く、金に透けた翅をひるがえしながら、アゲハチョウは静かに庭先を通り過ぎていく。
その姿を見上げたとき、人はつい、時間の流れを忘れてしまう。
「アゲハ」という名は、羽を揚げると書いて「揚羽」。
まるで舞い上がる瞬間をそのまま閉じ込めたようなこの名に、誰が最初に詩心を感じたのだろう。
水面をなでる風のように、アゲハはいつも「今このとき」にだけ生きている。
だがその刹那の美には、どこか、永遠の気配がある。
平家の家紋に描かれた蝶も、同じ「揚羽」であった。
戦に散った命の紋、儚さと誇りを象徴する文様。
その羽は、時に火の中に、時に川の底に落ちていった。
しかし、その名だけは時代を超えて舞い残る。
そんな「揚羽」の名の記憶を受け継ぐように、ヒマラヤの奥、雲と岩と密林に包まれた秘境で、ひとつの伝説が羽ばたいた。
ブータンシボリアゲハ。
1933年に姿を見せたのち、誰の目にも触れずに78年の時を沈黙していた幻の蝶。
再び人の前にその姿を現したのは、2011年。
まるで遠い記憶がふいに夢から戻るように、翅をひらいた。
白と黒のモザイクに、血のような赤い斑。
その名に刻まれた「ブータン」の響きは、甘い幸せを感じさせた。
「揚羽」とは、美しいだけの名前ではない。
そこには、人が自然に向けて差し出した感情の揺らぎ、時の流れに抗うように記録された、命のかけらが詰まっている。
もしあなたが、ふと空を見上げ、ひらひらと舞う黒い翅を見つけたなら、それはただの蝶ではないのかもしれない。
もしかすると、長い眠りから覚めた伝説かもしれないし、あるいは、あなたの心の奥にずっと舞い続けていた「美しいものの記憶」なのかもしれない。
揚羽という名に導かれ、蝶は今日もどこかで静かに羽ばたいている。(亀吉)